「親ガチャ」に関する覚書

2021年に入ってから、「親ガチャ」という言葉をよく聞くようになりました。自分にとって有害な親のもとに生まれてきた不運を、「ガチャ」というオンラインゲームのシステムに喩えて表現する言葉だと考えられます。

これは、少し前に流行った、「毒親」という表現を彷彿とさせます。しかし、「親ガチャ」は世間的には違和感をもって語られているように思います。

たとえば、2021年9月9日に放送された『バラいろダンディ』(TOKYO MX)では、「嫌な言葉ですね。親ガチャってワードがまず嫌だな。親はショックだよね」というコメントが放送されました。また、9月16日に放送された『スッキリ』(日本テレビ系)では、親がどうこうということではなく、結局は本人がどう捉えるかという問題でしかない、とまとめられていました。

また、社会学者の土井隆義や、哲学者の森岡正博など、「親ガチャ」について論じる学者も現れ始めています。しかしその一方で、SNS上では、この問題について当事者の苦しみに共感を寄せず、学者がメタの問題へと昇華させていることへの違和感が表明されているのも散見されます。

で、まぁたぶん学者の端くれとしてこの問題について書こうとしていますので、私にもそうした批判が寄せられるのかもしれません。しかし、だからこそ最初に言っておくべきことは、「親ガチャ」という言葉によって表明された苦しみが現実に存在することは、そうしたものとして、受け入れられなければならない、ということです。もちろんそれは、私がそうした苦しみを理解できる、ということを意味するわけではありません。しかし、少なくとも私は、「親ガチャ」という言葉に託して叫ばれざるをえなかった苦しみがそこにあることは、理解できます。その事実を軽薄に相対化する権利は誰にもありません。

その上で、私は「親ガチャ」という表現には問題があると考えています。そしてそれは、「親ガチャ」という言葉でしか苦しみを表現できなかった人に、さらなる苦しみを与えかねないものであると危惧しています。その苦しみを表現するならば、「親ガチャ」は使わないほうがいい、というのが、私の考えです。

さて、「親ガチャ」という表現の構造を考えるとき、そこには、子どもには自分の生まれてくる親を選択できない、という偶然性と、オンラインゲームにおけるガチャの偶然性という、二つの事象の類比関係が存在することが分かります。

では、この二つの事象はどこまで似ていると言えるでしょうか。たしかに両者は偶然性を帯びるという点で似ています。しかしそこには無視することのできない決定的な違いもあります。

それは、誕生において、私たちには「ガチャ」を回すことができない、ということです。

「ガチャ」は、「私」が主体的に「回す」ことなしには、何も得ることができません。私たちは何らかのアイテムなり特典なりを得るために、自分の意志でガチャを回すのです。もちろんガチャの結果として何が出てくるかを選ぶことはできません。だからガチャを回した結果何が得られるのかはまったくの偶然に委ねられています。しかし、少なくともガチャにおいて、「私」はそうした偶然を自分で選ぶことができるはずです。

しかし、誕生の偶然性にこのような要素はありません。私たちは、自分で誕生することを選択してから誕生してくるわけではありません。気がついたらもうこの世界に存在してしまっているのです。ガチャにおいて、私たちは偶然性に委ねられること自体を選んでいます。しかし誕生の偶然性において、私たちは偶然性に自らを委ねること自体を選んでいるわけではありません。

もしも、無理矢理こうした誕生の偶然性をガチャで説明するとすれば、このようにならなければなりません。「私」は自分で回した覚えのないガチャを回して、いまの自分の親を引き当てた、と。しかしこのようなシステムはそもそもガチャではありません。ガチャを回す主体はどこにも存在しないのです。

私の考えでは、この違いは些細なものではありません。

もしも、私たちが自分の意志で偶然性を選択しているなら、その選択には責任が生じます。実際、ゲームでガチャを回して何が出ようとも、それは自分の責任です。たとえ目当てのアイテムが出なかったとしても、それを自分以外の誰かの責任にして、もう一度ガチャを回すことはできません。そうである以上、もしも誕生の偶然性をガチャとして理解するなら、自分がその親の子どもになったことは自分の責任である、ということになってしまいます。しかし、当然のことながら、この考え方は間違っています。なぜなら、生まれてくる子どもはそもそも自分の意志でガチャを回していないからです。

要するに、こういうことです。「親ガチャ」という考え方を徹底していくなら、子どもは自分の親を引き当てたことに責任を持つことになってしまう。しかし、子どもは生まれてくるときに「親ガチャ」を回すことを選択していないのだから、そんな責任は発生しない。だからこそ「親ガチャ」という発想は間違っている。そしてそうした発想と取ってしまったら、自分の親に苦しめられている人は、自己責任論によってさらに苦しめられることになりかねない。それが私の考えです。

そもそも、ゲームのシステムとしての「ガチャ」には、必ず設計者がいます。どの確率でどんなアイテムが引き当てられるのかは、完全にコントロールされています。しかし、誕生の偶然性にそうした設計者は存在しません。だからこそ、誕生の偶然性は、ガチャの偶然性よりももっとずっと理不尽であり、そこに私たちが他者と連帯すべき理由があるのではないでしょうか。

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4件のコメント

  1. おりたのりゆき

    誕生の偶然性がガチャの偶然性よりもずっと理不尽なのはよくわかりました。だからこそ「他者と連帯すべき」というところを書いていただきたいし、読んでみたいです。

    • HIROSHITOYA

      コメントありがとうございます。そうですね、機会を改めてその点についても書きたいと思います。

      • おりたのりゆき

        ご丁寧にありがとうございます。楽しみに待ってます!

  2. まるまる

    あの言葉をネットで使う側の人間です。
    親ガチャという言葉に些末な感情論で反発される方が多い中、実に理路整然とした内容で納得できる意見でした。
    特に、
    >私たちは、自分で誕生することを選択してから誕生してくるわけではありません。気がついたらもうこの世界に存在してしまっているのです。
    > もしも誕生の偶然性をガチャとして理解するなら、自分がその親の子どもになったことは自分の責任である、ということになってしまいます。しかし、当然のことながら、この考え方は間違っています。
    > 「親ガチャ」という考え方を徹底していくなら、子どもは自分の親を引き当てたことに責任を持つことになってしまう。しかし、子どもは生まれてくるときに「親ガチャ」を回すことを選択していないのだから、そんな責任は発生しない

    ここの部分に非常に救われました。ありがとうございます。
    あの言葉を使う側では自分が生まれたことにすら嫌悪感と罪悪感を抱いている人も少なくはありません。中には反出生主義者になった人達もおられるくらいです。重ねてお礼を申し上げます。
    いつの頃からか、一部の母親達の間に『子どもは親を選んで産まれてきてくれている』というカルトの文言が罷り通るようになりました(その後に虐待を肯定する内容が続くことを知らない人もいるようですが)。それに対する反論として吹き上がった言葉が親ガチャでもあるのかなと今日ふと思いました。
    大変寒くなって参りましたので、お体にご自愛ください。
    長文失礼しました。

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